Novel

オリジン vol.6

「いやあ、一日ぶりだねえ」

 

 大須賀さんは、しゃきっとした声色で言った。すでにどこかでひと汗流してきたのだろうか。血色の良い清々しさを纏っている。

 

「まるで一年ぶりに会ったみたいな言い方だな」

 

「うんうん、そうだねえ。一日空いただけでも久しぶりな感じがするよ。休みの日とはまるで別人みたいだから」

 

 土曜日、駅へ向かう道中で彼女と出会ったときの自分は、風貌や立ち振る舞いが、今とは全く違ったはずだった。自覚をしているだけに、面と向かって言われると少し癪(しゃく)である。

 

 彼女は興味深そうに言った。

 

「それでどうなの? 成果はあったのかな」

 

 僕の気にしていることばかりが続けて問いかけられるので、返答に窮してしまう。彼女は、その空白を見逃さない。

 

「その様子だと、今日の放課後は修羅場が待っているってことね。巻き添えにならないように、みんなにも報告しておかなくっちゃ」

 

「どちらかといえば、ぜひ皆の協力を仰ぎたい心境なんだが」

 

「それはダメだよ。任命制を選んだ時点で、責任っていう便利で煩わしいものがくっついてくるんだから。それを分担したいなら、きちんとした線を引いてもらわないと、結局人間はケンカしちゃうのよ」

 

 確認したいことだけ確認すると、彼女は自分の受け持つ授業の準備に取りかかるため、僕のことは放っておいたままで足早にその場を離れる。彼女は教師としての役割を完璧にこなす。こんな時ばかりはそれが恨めしい。一方で僕は、今日これから自分に用意された苦難を改めて思い知らされ、肩を落とした。

 

 教員室で、飯田が待ち受けていた。今日の彼のネクタイには、グレイ型の宇宙人の顔面が散りばめられている。

 

「想像以上に浮かない顔をしているな。昨日のがそんなに効いたか」

 

「原因は、すべて飯田にあるんだからな」

 

 悪びれぬ彼に、責任の尾を手放させるわけにはいかない。

 

「ところで今日、横沢は大須賀のクラスで授業だ。二時限目だな」

 

「なぜその情報を伝える? 僕に何をさせたい」

 

「大きな意図はないさ。つまり意図はあるんだが。お前だって色々、聞いておきたいことがあるだろう。時間は機会を奪っていくぞ」

 

 僕が一方的に横沢君の過去を知ってしまったことで、解消しなければならない感情が芽生えたのは確かだ。僕のような欠陥を持つ人間ができることとすれば、他人の意志に背かないことくらいである。僕は飯田の思惑に従うという名目で、誰かのためになれるのだ。そういう機会をもたらしてくれる飯田には、感謝せねばなるまい。

 

 二時限目の終わりになると、外はもう暗くなっていて、玄関の扉が開かれる度に冷え冷えとした空気が滑り込んでくる。僕は自分が担当するクラスの授業を、定刻より早く切り上げた。大須賀さんの教室の前を通り過ぎたが、彼女は依然授業を続けているようで、芯のある彼女の声が扉越しに鳴っていた。

 

 教員室では、再び飯田が待ち構えていた。先ほどと全く同じ構図だったので、時間が逆行したのかと錯覚さえした。彼も二時限目の授業があったはずである。僕よりもさらに授業を短縮したということだろうか。だとすれば非常にいけない行為だ。大野塾長に報告してやろうかとも思ったが、それは自分にも火の粉が降りかかるに違いないと、思いとどまった。

 

「まるで待っていたとでも言いたい顔だな」と、僕は言う。

 

「ああ。待っていた」

 

 素っ気ない態度で答える飯田だったが、いつものようにただ楽しんでいるという様子でもなかった。

 

「横沢と話すのか?」

 

「そのつもりだよ。飯田もそれを望んでいるんだろう? だったら言う通りに、問題の解法を考えるさ」

 

 飯田が次の言葉を発するのには、少しの間があったように感じた。

 

「……お前に、何ができる?」

 

 急に、彼は突き放すように言った。僕は戸惑い、顔面の半分が引きつるのを感じ、何も言えない。

 

「お前のことだから、横沢の過去も一緒に背負えばいい、とでも考えているのではないか。しかし、それは彼にとって望ましいことなんだろうか。彼はお前に、自分の悩みを聞いてほしいと頼んできたわけでもない。今直面している問題も、自分の力で打破しようとしているかもしれない。彼が今までそうしてきたようにだ。そんな少年に、お前が何をしてやれる? 想像できているのか」

 

 僕は、市営プールでの少年の眼差しを思い出す。彼の見つめる水面には、何が映っていたのか。水銀灯の反射光がちらちらと揺れ混ざる中には、多くの経験と感情が漂っていただろう。そこにあったものに、僕のような人間が手を触れていいのだろうか。

 

 飯田が言うように、横沢君は黙っている。外の人間が踏み入ることを望んでいないのかもしれない。それに、誰かが困難を越えようとしている場面に都合良く立ち会うというのは、自分自身を満足させるための愚行であると言われても仕方のないことだろう。

 

 不用意に人間を知ってしまうのは、恐ろしいことだ。図書館の三階で出会った日、あの出来事だけで完結していたのなら、また違った形で距離を縮めることもできただろう。そう考えると、その夕方、大須賀さんと偶然会話を交わし、横沢君の話題を取り上げたことすら、軽率な行動だったのではないかと思う。

 

 他人に関わって繋がりを持つことの責任を、僕は忘れてしまっていた。飯田はそれを見抜いていた。昨日、市営プールに僕を連れて行った時点で、あるいは試されていたのかもしれない。

 

「何も変えることはできない、と思う。彼にとって、無意味に心を惑わせることになるのなら、そっとしておいた方がいいのかもしれない」

 

 思い知らされた僕は、飯田に反論することはもうできなかった。「飯田の言う通りだよ」

 

 長い沈黙があった。いや、実際はごく僅かな時間だったのかもしれない。僕が身動きを取れなくなっていると、わかりやすいため息が聞こえた。はっとして顔を上げると、その主である飯田は首を左右に振って、両方の手のひらを天井に向けていた。テンプレートな所作だった。

 

「やれやれだな。まったく、そうすぐに塞ぎ込んでくれるな。少しは自分の選択を信じたらどうだ」

 

 飯田は、表情や声色をころころと変化させていく。

 

「差し伸べられた手を無視するなんてのは、卑劣極まりない。当然、握り返すべきだと俺は思う。そうではなくて、力なく、所在なく、差し伸べられなかった手があったとき、それをどうするのかを考えることが、善い人間でいるってことだ。面倒だと皆は忌み嫌うかもしれないが、これほどまでに意義深い役目はそう簡単に巡ってくるものではない。俺はその役目を譲り渡した人間として、お前に、横沢をわかってやって欲しいと、そう思っているよ」

 

 もう僕は追い付いていけない。彼の心はどこにある。僕を乱しておきながら、今度は引き留めようとする。説明を求めたい気分にもなったが、飯田が最後にこぼした言葉は、僕にそうさせないだけの力があった。

 

「彼のことを理解してやれるとしたら、それは俺じゃなく、お前の方だ」

 

 結局のところ、飯田は僕の背中を叩いてくれたのだと思う。もしその一撃がなければ、僕は興味本位で横沢君に近づき、配慮なく傷つけて終わっていただろう。僕はもう一度、横沢君の手の握り方を考える。それは、飯田の思惑に従うのではなく、僕の意志ですることだ。自分以外の人間に、自分の意志で向き合うのだ。

 

 大須賀さんの授業が終わったようで、教室から、子供たちがぱらぱらとこぼれ出てくる。僕は、教室の扉が横へ滑って、開いて閉じる様を注視していた。扉が五度目に開いた時、何人かに紛れて出てくる横沢君の姿を捉えた。彼はすでに荷物をまとめていたので、今日の授業はもう残っていないらしい。

 

 きっかけを作ったのは、横沢君だった。玄関へ続く通り道の丸椅子に腰掛けていた僕を見て、彼の小さな口が「あっ」と動いたのを捉えた。彼からすれば、二日前の図書館で以来の再会だが、予想外の大袈裟な反応に、僕も狼狽えてしまう。彼はうつむきながら歩いてくる。警戒心が風船のように膨れ上がっている。僕はそれを破って距離を縮めてしまうほど自分本位にはなれないが、力加減をして、どうにか受け止めなければならない。決めていた言葉を彼に向ける。

 

「やあ。二日ぶりだね。望みの本は見つかったのかい」

 

「……いいえ、見つからなかったです」

 

「あの図書館に行ったのは、はじめて?」

 

「あることは知っていたけど、行ったことはなかったです」

 

 横沢君は案外に、丁寧な受け答えをした。僕が隣の空っぽな丸椅子に誘うと、彼は素直にそこへ座った。

 

「よかったら、どんな本を探していたのか、話してくれないか? 先生は図書館でよく調べ物をしているから、目当ての本の在り処がわかるかもしれない」

 

 僕がそう言うと彼は困った顔になったが、またすぐに答えを用意した。僕は胸をなでおろす。

 

「ぼくが探していたのは決まった本ではなくて、どんな種類なのかもわからないんです。だから、たくさん本がある場所に行けば、偶然見つかるかもしれないと思ったけど、背表紙に書いてある文字だけじゃ、だめでした」

 

「そうか。横沢君は水泳をやっているって、大須賀先生に聞いたよ。探していたのは、水泳に関するものではないのかい?」

 

「ああ、先生も知っているんですね。水泳に、関係する本といえばそうなのかもしれませんが、でも違うような気もします」

 

 彼は、とても悩んでいるように見えた。自分の求めているものが定まらない状況は、苦しいものだ。

 

 先ほど横沢君が出てきた教室の扉が開いて、控えめな女の子が一人現れる。その後ろから大須賀さんが「それじゃあ、また明日ね!」と、快活な声音で見送った。

 

「横沢君、明日は練習かい?」と、僕は尋ねた。

 

「はい。でも、まだわかりません」

 

 僕はガラス越しに見た光景を思い出す。まだわからない、という言葉の意味は十分に理解できる。だからこそ僕は、この提案をしなければいけないと思った。あのガラスの向こう側に、好転の種は植わっていないと思ったのだ。

 

「どうかな。先生と、図書館へ行かないか? 明日、放課後においで。先生は三階の自習スペースにいるから」

 

 するとそこへ、見慣れない様子が目についたのだろう、通路の奥からよく通る声で彼女は言った。

 

「あれあれ、どうしたの? 横沢君、質問があるなら私にしてくれればいいのに!」

 

「いや違うんだ、大須賀先生。引き止めたのは僕だ」

 

「え、だめですよお! 横沢君、今日はもう帰りなんだから無理に時間を使わせちゃあ」

 

「先生、ぼくは大丈夫です。今日は叔父さんたち、夜遅いみたいなので」

 

「そうなの? でも、ほどほどにね」

 

 横沢君は僕を救済した。大須賀さんは僕に対して牽制する視線を送っていたように見えたが、「それじゃあ、気をつけて帰ってね」と、横沢君と、僕に告げると、教員室に消えた。僕はそれを確認してから言う。

 

「引き止めて悪かったね。明日のことは、明日また決めればいい」

 

 強要することではなくて、彼自身が決めるしかないことなのだ。僕の言葉を聞いて、彼はきちんと会釈をした。

 

「はい。じゃあ、帰ります。さようなら」

 

 玄関が開いて、鋭利なすきま風が迷い込んだ。僕はひとり、果たしてこれが正しい時間だったのか、信じられはしなかった。左目がひりひりと痙攣を始める。僕はそれを、急に舞い込んだ冷気のせいにした。