Novel

オリジン vol.8

 思わぬ問いかけに、僕は戸惑ってしまった。てっきり、横沢君の抱える漠然とした悩みや、悩みには満たない違和感のようなものを打ち明けられるのかと思っていたから、存外にきちんとした疑問文が彼の口から発せられたことに驚いたのだ。

 

「水、っていうのは、蛇口から出てくるあの水のことかい?」

 

 しかし僕は、その疑問があまりにも言わずと知れたものを対象としていることを、素直に受け止められなかった。何か別の観点が練りこまれているのではないかと考える。

 

 横沢君は周囲を気遣い、声を殺して答えた。

 

「そうだよ。コップに入れて、ぼくたちが飲んでいる水のこと。でもそれだけじゃない。手を洗う水とか、お風呂のお湯も。空から落ちてくる雨だって、街はずれを流れるあの川も。それに、ぼくが泳ぐプールの水もそう」

 

「横沢君の言うとおり、水にはたくさんの使い方や、居場所があるね。そう言う意味では、水が何なのか、という疑問はとても大きな疑問なのかもしれないよ」

 

 僕は、まるで先生のような口調で切り返した。大野塾長からの教えを守ったに過ぎないのだが、それはあの学習塾にいるときの話だ。他に子供はいないこの図書館の自習机で、くたびれた私服姿の僕が使うことのできる威厳など、存在しないはずである。

 

 横沢君は黙っている。彼は、疑問に対する僕の見解を待っているのかもしれない。僕は、手元にあるなけなしの知識を伝える。

 

「いくつか例示してくれたように、人間が生活するためには、いろいろな場面で水が登場するね。生きていればのどが渇くし、不潔なままではいられないから」

 

 机についた傷の形を見ているのか、反応のない横沢君の姿に不安を感じながらも、どうにか活路を見出せないかと話を続ける。

 

「でも我々の生活にある水は、そのほとんどすべてが空から落ちてくる雨の水を使っているんだ。もちろん、だからと言って雨水をそのまま飲んではいけないよ。蛇口の水は、人間が使えるように浄化してある。浄化には、塩素という成分を含ませるんだ。塩素は、横沢君が泳ぐプールの匂いのもとだね」

 

 僕の言った「プール」という言葉に、一瞬彼の体が反応したように見えた。しかし依然として彼が声を発する気配はない。

 

「水は透明だから、何も混ざっていない液体なのかと思うかもしれないけれど、そうではないよ。いま話した塩素だってそうだし、実のところ、混ぜ込んである成分やその量の違いで、たくさんの種類に分かれるんだ。テレビのコマーシャルなんかで聞くミネラルっていうのは、水に含まれる成分のことさ。カルシウムとかマグネシウムとか。人間の体を保っていくために必要な栄養素が、水の中にも混ざっているんだ」

 

「それだけ?」

 

 それまで口を閉ざしていた横沢君が、急に喋った。僕は思わず彼に視線を合わせる。ずいぶん間抜けな顔をしていたと思う。

 

「水に混ざってる成分は、そのカルシウムとマグネシウムと、それだけなの?」

 

 再び、今度はしっかりと聞き取れる声で彼は言った。

 

「他にもある。ナトリウム、カリウム。例えば最近だと、アルカリイオン水や水素水みたいなものもあって、そうなるとまた別の成分が出てくるのだけどね」

 

 さすがにすべての成分を言い当てる知識は持ち合わせておらず、尻つぼみになってしまう。僕は方向を変えた。

 

「横沢君は、水の成分に興味があったのか?」

 

「どうなんだろう……成分、じゃないのかもしれない」

 

「他に、気になったことがあるなら言ってごらん。考えてみよう」

 

 この糸口を逃してはならないと思った。体はやや前のめりになる。

 

「うーん。じゃあ、水にはどんなものでも溶かせるの?」

 

 ひねり出すように聞いた彼の瞳は、おそるおそるという控えめな様子だったが、その奥に小さな期待の色が混ざっているようにも感じた。僕は彼にもわかるように、易しい表現を心がける。

 

「どんなものでも、ということはないな。水との相性が悪い物質もある。よく知られているのは油や鉄。あとは、例えば砂糖だって、水の温度が低くなれば溶ける量が変わる」

 

「そうなんだ。ものじゃなく、匂いとか、そういうものは?」

 

「ああ。匂いを溶かすこともできる。正確には、匂いのついた水蒸気を冷やして、液体の水に戻すって方法だけどね」

 

 正直なところ、まだ小学生の彼がすべてを理解しているとは思えなかったが、一音すらも聞き漏らさないようにしている彼の姿に、僕は誠心誠意応えなければならないと思った。

 

 そこまで言うと、彼はこれまで僕が話した内容を噛みしめるように、一度間をあけた。何かのヒントになったのだろうか。

 

 周囲の自習机は、いつの間にか空席が増えていた。残っているのは、薄暗くなった窓際の数席と、通路沿いのほぼ中央にいる僕らだけであった。人の少なくなった図書館ほど居心地の良い場所はないと僕は思っているのだが、今日に限っては、必要以上に温度の高い暖房の設定と、対峙すべき相手がいるという状況に、心はそうもいかなかった。

 

 横沢君は両の頬を赤くしてじっとしていたが、しばらくして意を決したように、僕と視線を合わせた。

 

「それじゃあ、思い出や気持ちは、水に溶けるの?」

 

 準備を整えていなかった僕は、面食らって動けない。その様子を見て、彼は申し訳なさそうにした。

 

「やっぱり、変な質問だった?」

 

「いや、そういうことではないんだ。思い出や、気持ちか……」

 

 僕は必死に取り繕う。彼が気を揉む必要はない。むしろその、突如として核心に近づいた重要な問いが、僕の脳内をかき乱していた。もうこの問いは、科学的な、あるいは論理的な解答を与える種類のものではない。つまり当然のことながら、答えに関連する書籍は存在するはずもなく、この建物の住人には一切、助けを求められないことになる。

 

 横沢君が水の中で感じたのは、幼き彼がその両親を亡くした海での記憶であり、二度と戻ることはない唯一で大切な家族の眼前で成し遂げられなかった勝利を悔やむ気持ちだろう。

 

 もしかすると、彼とずっと共にあった水に溶け出したそれらが、堪え難い匂いになって、彼を苦しめているのかもしれない。そうであれば、プールサイドに座っている時間さえ嫌になる。

 

「難しい質問だね」

 

 僕は答えに窮していた。ただ黙っているわけにもいかないので、嘘だけは言わないように、向き合う。

 

「正直なところ、僕がこれまで勉強してきた中に、水に溶ける思い出や気持ちというのは、教わったことがないんだ」

 

「……そうだよね。ぼくも、そういうことじゃないんだろうって、わかってるつもりなんだよ」

 

 声が落ち込んでいた。僕はやるせない気持ちでいっぱいになる。手は、離してはいけないと思った。

 

「ただ、答えがない、ということはないんだ。どんなことにも、答えがある。世の中にはね、問題になりそうもないからといって、見捨てられるものがたくさんあるんだ。小さな苦悩とか、今さらもう遅いって諦めた後悔とか。でもね、それは間違いなく、答えのある問題なんだ。それなら、答えは出さないといけない。放り投げたり、見ないふりをしたりしなくていいんだ。横沢君が気づけた問題は、僕が一緒に考える。だから答えが出るまで、時間をくれないか? 横沢君が考えている間、僕も探してみる。何か見つかったら、また話そう。その時は必ず来るよ。僕はそう思うんだ」

 

 言い終えてから、自分の発した言葉が、受け売りであることに気づいた。耳に残ったのは僕の声ではなく、僕を大野学習塾に誘い込み、休日には喫茶瑠璃で一方通行の議論を披露するあの男の声だったからだ。それが少し可笑しかった。だがそうだとしても、横沢君に伝えたかった僕の気持ちは、僕のものだ。

 

「先生、ありがとう」

 

 目の前の少年は、うつむきながら言った。「ぼくも、探してみる」

 

 図書館の玄関を出ると、金山公園の歩道は完全に暗くなって、道端に整列する木々が夜の密談を始めたようだった。薄闇の中、駅から帰ってきたスーツ姿の男性や、飼い犬の散歩をする者が数名歩いていたが、日のある時間からすると格段に人気は減っていた。横沢君は、僕の帰路とは反対側の方向だった。僕は公園の出口まで彼に付き添ったが、特に言葉を交わすこともなかった。こんなとき、自分の不甲斐なさを痛感する。横沢君には、居心地の悪い思いをさせているのだろう。

 

 出口のところで、彼は「もう大丈夫です」と言った。僕はとても申し訳ない気持ちだったが、「気をつけて帰りなさい」と無駄な虚勢を張る。そういう自分は、本当に情けないと思う。背後に並び立つ木々は、きっと笑っているだろう。だがそれも構わない。笑われるのは、もうすっかり慣れてしまった。暗闇に溶けていく小さな少年の背中を見送ると、僕はまた、その笑い声の中を歩いて家を目指した。